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代表 佐藤雅己
<読み飛ばすことのないように最後までお読み下さい>

佐藤雅己(代表)のご挨拶
ようこそ!スペイン料理店のれん分けのホームページへ
初めまして、スペイン料理店エステーリャ オーナーシェフ兼UFIJ Ltd.代表取締役の佐藤雅己です。
通常は軽井沢にある実店舗で日々厨房に立ち、軽井沢に移り住んできた方・別荘族の方・都内近郊・県外にお住いのお客様から多くの支持を得て、年間を通してわざわざお越しいただいております。
私の想い
「スペイン料理を通して、関わる人を幸せにしたい」
この手紙は「なぜ、スペイン料理なのか?」それをお話しした内容です。
2、3分で読めますので、読み飛ばすことのないように最後までお読み下さい。ありがとうございます。
1991年、わたしは21才の頃、自分の将来についてとても思い悩んでいました。ホテルで製パンと洋菓子を4年学び、その後イタリアンの店で調理に携わっていました。人並み以上に真剣に学び、日々様々なことを吸収し新しいことにも挑戦していました。そして、いつかはドイツかフランスに行きたいとなんとなく考えてはいました。
でも、自分の心というか感覚がこれらに携わっていても「しっくりこない」状態が常で、100%の気持ちを込めて仕事をすることはできませんでした。
正直、自分の心に嘘をついて携わっていました。だから、当然苦しくなっていきます。
自分が男として一生をかけてやりたい仕事はなんなんだろう?俺は何をするためにこの世に生まれてきたんだろう?と常に自問自答を繰り返していました。
あなたは「そんなこと考えながら仕事しなくてもいいんじゃないの?」と思ったかもしれません。でも、私はあなたが思う以上に中途半端な生き方が嫌で悩み苦しむ日々だったのです。
でも、1年が経ち転機は訪れました。いつものように仕事で疲れ果てて帰宅し、電気もつけずに静まり返った暗い部屋でテレビのスイッチを入れ画面をぼーっと見ていました。それはどこかの国で料理人が沢山いる調理場、私が見たこともない料理を作っているシーンが流れました。
「???うん?不思議な感覚だ」
それを見た瞬間、私はまるで雷にでも打たれたかのように全身に衝撃が走り「俺はこれがやりたい」「この仕事を一生やる」と決意した瞬間でした。それが、たまたまスペイン料理だったのです。なんでそう感じたのかは自分でも説明が出来ません。でも、いても立ってもいられないの興奮状態になったのです。そして、行くと決めた瞬間,次の行動はとても速かったのです。
お金もない。コネもない。言葉もできない状況でしたが、「2年以内に俺は必ずスペインに働きに行く!」と決意。次の日に車を売却し、スペイン語の辞書・NHKテレビのスペイン語会話・ガイドブック・スーツケースを購入していつでも出発できるように準備をしました。
当時は携帯電話もメールもパソコンも持っていなかったので、コネを探すために分厚い電話帳を片手に、日本中のスペインという名の付く所に数え切れないほどの手紙を数百通余り送り(もちろん手書きです)毎日何時間もスペイン語を独学で学び、体力作りをしながらひたすら行動しチャンスを待ちました。
「そんな夢みたいな話叶うわけないでしょ?」
自分の周りはそんな感じであざ笑うような人たちばかりでした。
何を言われても構わないけど「俺、もうスペインで働いているんだけど」というとても不思議な感覚でした。
それからというもの私の頭の中はいつでも自分がスペインのレストランで働いているイメージが物凄くリアルに見えていました。錯覚に陥るくらいのリアルさでした。ですが、一向に音沙汰は無くタイムリミット最後の日。ついに一本の電話があったのです。(この二年間、実は不思議と迷い、悩み、諦め、恐怖感これらの感情が微塵もありませんでした。)
留守電には「○○と申します。あなたからの手紙を読みました。...。」とメッセージが残されていました。
私は、すぐに折り返しの電話とお礼の言葉を述べ、チャンスは今だと感じたので半ば強引にその方と次の日に会う約束をし、大阪まで会いに行きました。
レストランに案内され着席をし、再度深くお礼を述べ、手紙に書いてある内容を更に深く話しました。その方はスペインのマドリッドで私が働くことになるレストランで14年間働いており、大阪に支店ができるため立ち上げシェフとして日本に帰国していました。願ってもないチャンスを掴める一番可能性が高い方でした。
私は、あった瞬間にスペインに行けるタイミングは今しかないと感じたので、私は思わずその場で土下座をして伝えました。
「○○さん、お願いです。私をスペインにあるそのレストランで働かせて下さい!」
「そして、今すぐこの場でスペインに電話をしてチケットの手配をして下さい!」
「どうか、お願いします。これが最後のチャンスなんです!」
「今この場で、スペインに電話をして下さい!決定してくれるまで私は、この場から帰りません!」
と、聞いたこともないような強引なやり方を押し通しました。
でも、考える間も無く自分の中から出て来た言葉なのでどうしようもありません。
周りにはたくさん人がいたので、みんなビックリしていたと思います。
「わかったから、今、電話するから、椅子に座りなさい。」
それから30分ほど本店の社長とスペイン語で話しをされていましたが、
いったい何を話しているのかわからないのでやきもきしていたのです。
○○さんは笑顔で、こう言いました。
「君は凄いな!社長からOKが出たぞ!奇跡だな、頑張りなさい。」
スペインの社長は「面白いやつじゃないか!すぐにこっちによこせ!チケットはもう手配した。」
と、言っていたそうです。
私は、飛び跳ねて喜びました。
再度深くお礼と感謝を述べ、帰りました。
でも、なぜだかわかりませんが本当に、こうなって当たり前だと思っていました。
そして、チャンスを手に入れた私は当時の仕事を辞め、愛知の借家を出て一旦実家の長野に引越しをし、あらゆる手続きを済ませ、大阪に行ったその日から何とわずか1週間後には、スペインで働いていました。そして、願ってもない最高のレストランで充実した3年間を過ごすのです。
50人近くいる見習い料理人(全員給料無し)の中でも、最下位の一番下から、経験値ほぼゼロからのスタート。
夢が叶った私は「調理場にいるだけで天にも昇るような気分」だったのでみんなが辛いと思うような仕事も、楽しくて仕方ない。とにかく楽しくて仕方がない。働いているというより遊びに夢中な子供のようでした。楽しすぎるので、気がつけば1日 22時間、休み無し休憩無しで私はやっているわけです。(そのレストランは24時間、どこかしらのセクションが常に稼働しているのでお願いして働かせてもらっていました)
「日本から頭の狂った奴がきた」
そんな噂はすぐに広まりました。
見習いは、賄いはありますがみんな給料がもらえない(チップはもらえます)ので、相当な覚悟が無いと長続きしません。先が見えにくいため、覚醒剤や麻薬に手を出して脱落していく人間も沢山見て来ました。
私は階段を一気に駆け上るように、何もかも好き嫌いなく飲み込むように仕事を吸収して行きました。
1994年の10月にスペインに行き、年明けの2月、数百人単位のケータリングが何件も重なり、人手が足りなくなりました。
マエストロに呼ばれ、料理もスペイン語もまだまだだった私に、
「マーサミさん!600人のケータリングがあるんだけど、お前一人で行けるか?」というではありませんか。
私は「もちろん大丈夫です。私にやらせて下さい!」と間髪を入れずに返答しました。
それを聞いていたみんなは前代未聞の、シェフの無茶振りに同僚はみんな目を丸くしたのです。
しかも、政財界の人達が集まるパーティーなのに、
「来たばかりの日本人、マサミが一人で?600人を?」「本当に?」「シェフ大丈夫ですか?」となり、
シェフ曰く、「大丈夫、マサミはできるって言っているだろ!?」とこうです。
最終的には、私が司令塔になり、助手にブルガリア人のボブとカマレーロ(ウエイター20人強)を引き連れ、私の指図で料理を始めとする段取りも全てを何とかこなして無事にレストランに帰って来ました。
今思えば、私にとってスペインで最初の、最大の危機であり最大のチャンスでした。シェフは一か八か私を試したんですね。その日から私を見る周りの目が一変したのです。オーナーに呼ばれ、「マサミにだけ毎月給料を出すから、みんなには黙っていなさい」と言われ、その月から給料をもらい、専属の弁護士・スペイン語の個人教師もつけていただき、無料で料理学校にも行かせてもらえるようになり、更には、レストランの最上階にあるマンションの大きな部屋無料に一人で住ませてもらえるようになりました。
一年も経たずに、シェフの右腕、スーシェフにまで駆け上りました。気持ちが浮かれることなく、更に切磋琢磨しスペイン人にスペイン料理を教えるまでになりました。でも、そんな順調に進んでいた道も3年目に差し掛かる頃、予想だにしない試練が待っていたのでした。
絶望と別れ、
「私はあるきっかけで、手錠をかけられて、牢屋の中へ」(※ここでは伏せます)
友人の弁護士2人のおかげで強制送還は逃れました。
その時は、スペイン銀行頭取のコネまでいただいて、労働許可証の手続きをしている時期でした。
でも、自分が望んでも絶対にスペインに滞在することはできない状況に陥ってしまったのです。
こころざし半ばで、夢と心が半分に折れてしまいました。まさかこんなことで帰国するとは夢にも思いませんでした。
シェフであるマエストロや仲間に別れを告げまた数年後戻ってくることを誓い、レストランを後にしました。
人生でこれほど泣いたことはないと思うほど、私は大泣きしながら重いスーツケースを引きずって日本へ帰国しました。
感慨深い3年間、人生最大の恩師となるマエストロに出会い嬉しくて、体が震え、涙が止まらない程の経験を沢山しました。
スペインでの数々の出会い、授かった皆の想いを胸に27歳の時に帰国。
帰国する際、マエストロが、
「私は君のために様々な環境を用意し、教えて来たけれどその時に君が感じた想いや学んだことは、私に返すのではなく、君がこれから出会う人たちに返していくんだぞ。そして、日本でちゃんとしたスペイン料理を広めて有名になってほしい。」
と言われたのです。
その時、私はシェフの両手を強く握りしめながら、ボロボロ泣きながらただ頷くことしかできませんでした。
心では、「感謝の気持ちを常に忘れずに、人と出会い、縁があった方と一緒にスペイン料理を広めて行こう」と決意したのです。
スペイン料理が、イタリア料理みたいに日本の各家庭の食卓まで浸透するように広めることが私の恩師や出会った方々への恩返しであり、使命です。その為に私は生まれてきたのです。そう、言い切れるのが「スペイン料理」に携わる唯一の理由であり想いです。
そして、自分と関わる人を幸せにしたいそんな気持ちで生きています。
そのきっかけとなるのがこのスペイン料理のれん分けプログラムです。
長くて読みづらい文章を最後までお読みいただきありがとうございます。
こうして読んでいただけたことに心より感謝いたします。
追伸:
実はもうひとつ不思議な話しがあります。スペインに行くきっかけとなった「あの時、テレビに出ていたシェフ」なんと、自分が働くレストランであり生涯尊敬するマエストロだったのです。それは、シェフと話していた時にわかったことでシェフもわたしも同僚も凄く驚いていたのはいうまでもありません。
ソウルメイトとかってあるのかな?(笑)
終わり

経歴
製菓製パン(4年)及び西洋料理全般を習得。
1994年からの3年間スペインの首都マドリッドで、当時ミシェラン最高峰のレストランにて50人ほどいる料理人の中でもスーシェフとして勤務。
スペイン人にスペイン料理を教えるほどの腕前に成長し、バカンス等を利用してスペイン国内・スイス・フランスにて研鑽を重ねる。
帰国後、スペイン料理指導の後、軽井沢のホテルでシェフとして10年間勤務。
2012年念願のスペイン料理店をオープン、現在に至る。
